病気になって、自分のエネルギーが少なくなって、弱弱しくなった時に気づいたことがあって、それは、弱弱しくても私のエネルギーは、まだ消えなさそうだな、と思ったことだ。
「思ったこと」と書いたが、思ったのではなくて、察知したというのが正しい。
「思ったこと」は私の考えが入っている。
察知したというのは「考え」とは違って「私全体」からくる感覚。確実に私の感覚なのだけれど、「考え」を超えた、私という生命体の声みたいなもの。
そういうと、神秘的な感じがしてしまうかもしれないが。
で、その察知したことは「私まだ生きますから!」っていう「意志」だったのかな、と思う。それはとても断固としたものだった。
その「意志」というのは、例えば来年までにこの本を読破します!とか、死ぬまでにエベレストに登ります!なんていう意志とは少し違う気がする。
もう少し、根源的なもの。例えば、
「私、生まれます!」っていう意志を持って私は生まれてきたのかもしれない。そんな感じの元々の「意志」。
いつか若気の至りで、もう死んでしまおうと真剣に考えた時にも、それは出てきたことがあった。「死のう」という力に対して、まるでボールを力強く壁に打ち付けたときのバウンドような跳ね返りがあった。自分の中の二つの対立する力。そして「生きます!」という意志は負けることはなかった。それで「そうか、今死ぬことはできないのだ」ということに気づいた。
一方、いきものはあっけなく死んでしまうということもある。
だから、いつ死ぬかはこの私の自由にはならないのだなと、思う。
いつ死ぬかわからないけれども、きっとそれは、私自身全体の意志なのだろうな、と想像する。
(そして、今書きながら、少しだけ、他の命を頂くことに丁寧になろうと思った。)
で、初めに戻ると、病気になって弱弱しくなったけれども「ああ、自分の中に生きる力があるな」と感じた。それを「生命力」というのだなと結論づけた。
生命力というありきたりの言葉だけれど、それを実際に肌で感じることができてよかったと思う。「生命力があるなぁ」と感じたら安心できたし、どんなに悪くなったとしても、耐えられなくてじたばたとしても、生命力にお任せするのがいいのだなと思えた。
”Life forse”という人もいるし、バイタルフォースという人もいる、その力の「邪魔をしない」ようにしよう、できれば協力しようと考えを決めたら、入院生活はかなり充実した。
生命力は私のものなのだけれども、こうして考えている小さな私と"="ではない不思議なものだなと思う。生命力のほうが本体で、私を作って動かしているようにも感じる。
宗教ってこういう感じなのかな。と思った。
「信じるものは救われる」という。生命力という信じられるものがあったから、かなり救われた。
それに包まれているのを実感したら幸福な気持ちになった。
生命力をいつも感じられたらよいのだが、元気になると生命力の底力は影を潜めてしまう。元気だから他のエネルギーや考えが目立って埋もれてしまうのかもしれない。
瞑想やなにかしらの修行は、生命力との交流なのだろうか。
目下、ぐうたらな私の方法は、生命力を思い出す。息を吐く。問いかける。それだけである。
そして、日常生活のなかで、それすら忘れてしまう。毎日ほこりを払うように、思い出せばいいってわかっているのに。
写真は生命力を描いた落書き
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