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  • 執筆者の写真安田ヨウコ

新しい私になる

退院してから2018年12月1日で、一年たった。

あ、もう治った治った、なんて、毎日思っていたが、回復は少しずつ進んでいたのだなと今実感する。

途中、その時はわからなかったが、うつうつとしたこともあった。

過ぎてみたら、ああ、あの時はまだ途中だったんだなと感じる。

何を考えても後ろ向きになったり、

どこまで行っても何の変化も感じられない、

単純に元気が出てこない、

なんてこともあった。


まあ、生きてる間は常に人生の途中なんだから、病気でなくてもそんなものかとも思う。

でも、すっかり体力も落ちてしまっていたところからの回復は

普段の浮き沈みより鮮やかでわかりやすいのだ。


今は、少しだけ新しい感じ。


先日の月一検査で、どうやら再発が自力で未然に防げたことがわかった。

再発する病気なので、経過を毎月見守っている。

秋の検査で「悪い兆候が表れたから、そろそろ投薬入院しましょう」と言われた。

こんなに元気なのにおかしいな、と思った。

だから、もう一度調べてから決めると言って、次の月に検査すると

あれれ?数値が好転している。つまり寛解してるってことになる。


失われた腎機能はそのままだけれど、それでもそれほど炎症は起きてない。

そんなフェイントが二回ほどあって、やっと今、自分が新しくなったなと

実感しているわけだ。


このままよくなるのか再発するのかわからないけれど、

何となく、このまま新しい自分になるような気がしている。


くどいようだが、そもそも「毎日が新しい自分」であるはず。

けれど、年単位の脱皮というのも人生につきものなのだ。きっと。

そして、今回は病気のおかげで大きな脱皮ができそうだ。

脱ぎ始めて終わるまでに一年もかかるようなら、

これはかなりかなり大きなストリップですよ。


それで、

再開してからのレインボーラボは消極的開店であったのだけれど(苦笑)

そろそろほんとうに開店するかもしれない。


かもしれない。というあいまいな言い方であるのは、

実は、いいことなのだ。

それは、私が自分に正直であるということだから。


今までしてきたワークと、これからのワークは違ってくるだろう。

ワークも大きな脱皮をするときが来たのだと思う。

それはとてもわくわくすることだ。


そう思えるのは元気な証拠だ。


わたしは自分の皮が大好きでなかなか脱皮する勇気がなかったのだ。

いつも、いつも、できあがった結果を愛したり憎んだりするあまりに、

今、という果実を味わわずにいた。


毎日が違う、新しい一日であるということを

ついつい、忘れてしまうのだが、

今、また改めてそれを実感している。



小さな一瞬を大切にするという、小さな小さな決心。

そして、すぐに手放して、次の一瞬と、ただ透明に出会う。

それをずっと練習しているのだと気づいた。


何をしたらいいのかわからなくて、

溢れかえる思考と情報の広い海の中で途方に暮れ、

はっきりしない霧の中をだらだらと歩いてきたようだけれども、

自分の面倒をみることだけやっていたら、

必要なことは、ちゃんと向こうからやってきてくれた。


何もできない自分、それでよかったんだなと思える日が来た。

ありがとう!





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