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  • 執筆者の写真安田ヨウコ

病気でも健康でいよう!-頭はときどき迷子になる

かなりのぼんくらである私だが、それでも人間だから頭でいろいろ考える。

「頭」というのは脳を指すのか、脳の働きによってか、あるいはそれを含む身体の受け取る情報の総体として生まれる思考を言語化したものを指すのか定かではないが、

「こうだ」って言語化できる「頭」のことである。


外に開かれた五感は、私の外部からくる情報や内部からくる情報を受け取る。

情報センターである脳はそれらを集め総合的に判断して何が起こっているかを把握し、(必要があれば)言語化するのだろうなと思う。


そんな単純なものではないと叱られそうだが、

どういう経路にしろ、頭で「こうだ」と思ったことは、いわば、現場を知らない上層部が下から上がってきたデータとこれまでの経験と言語という道具によってはじき出した、これまた単なるひとつの仮説のようなものだ。と、私の頭が言ってる。

果たしてそれを真実と言えるのか!? それは、わかりません。


さて、(例によって)それはさておき、

そんな「頭」は実際、現場を何も見ていないし、死ぬまで二度と見ることはないのだ。

頭は体の中に閉じ込められており、ほんとうには、目玉と口と耳と皮(内臓含む)以外は世界に直接接していないのだ。


でも「頭」だけが「考える」ことができる。情報から類推したり、仮定を立てたり、判断したりする。また肉体の中のエネルギー変化(ガテーニョ博士はインナークライメイトと言った)から、気分や感情というものも察知する。好きとか嫌いとかの情報もアクセスできる。


それで、「頭」は何もかもすべてが「考え」の中にあると思う。

考えの中に何もかも存在していて、それが私にとっての世界だと思うときがある。

それは一理そうかもしれないが、


でも、たぶん、私という存在は頭が思いつく範囲よりもずっと大きなものであるし、

世界はもっともっと広い。宇宙はもっともっともっと広い。


私の頭はときどき迷子になる。

私全体を離れて、頭だけでどこかに行ってしまって、帰ってこられなくなる。

それは、頭の中だけで悩んだり喜んだり、自分の理論を組み立てたりするということ。

取り越し苦労や、ぬか喜びや、的外れであることが後でわかったりする。

もちろん、グッドアイデアが生まれることもある。


現実を見れば、頭の中に比べて、それほど単純でない場合もあるし、逆にまったくシンプルであることもある。とんでもなく的外れであることもあれば、自分でもほれぼれするようないいアイデアが浮かんでいることもある。

いずれにしても、私は頭の中だけで考えることに時間とエネルギーを使いすぎているようだと最近気づいた。


頭が迷子になったらどうするか。

迷子と言ったって、頭が体から離脱して転がったり浮遊するかというと、

実際はそういうことにはならない。(シュールでいいけど)


というと、つまり、頭に対していわゆる「からだ」を思い出すのである。

からだは常に「今、ここ」に生きて私の生を営んでくれている私の一部だから、からだを含めて私自身を思い出すことで、迷子になった頭は今、無事に私に「すげ戻る(?)」ことができる。

(そういう意味でアレクサンダーテクニークは役立つ)


よかったね。私の頭。


冗談でなく、こんなことになるのは、普段、頭がからだのことをあまり重要視していないからではないかと思う。頭は頭にとって重要と判断する情報だけ取って、そうではない情報を無視するから、からだの重要性を知らなければ頭の中のことにばかり夢中になってしまう。


無視されてきた「からだ」が、とうとう「もう限界です!」ってところまできて、

あるいは「うわー!最高です!ひゃっほー!」ってところまできて、

やっと、頭はからだの声に気づく。からだのことはどうしていいかよくわからないから、からだからのビビッドな情報を受け取ると焦る。


私のからだが不調ばかりであるとしたら、大声を上げる前の、なんでもない時の体の情報を無視しているからかもしれない。


あるいは、人によっては、それを無視しなければ生き残っていけないほど社会生活は過酷なのかもしれない。


私の頭が重要視しないことは例えば、

「少し動きたい」とか、「甘いものじゃなくてたんぱく質が食べたい」とか、

「休みたい」とか、「その動きは無理だ」「深く息をしたい」とか、そんな小さなこと。


頭とからだとの関係が疎遠になると、なかなか双方の言葉が通じなくなって情報が錯綜し、そうなると、その人はもはや人間バビルの塔になってしまうんじゃないか。


・・・なんて、心配をするのは頭の仕業であろう。

生命体の内部のとてつもなく精妙なコミュニケーションは、言葉を介さずとも働いてくれている。だから生きていられる。しかも外部の別の生命体ともコミュニケーションできる。


これはとてつもない奇跡である。

頭が進化したから、そのような奇跡が当然のことになったのだと思う。


人間の中で、一番進化したのは頭かもしれない。時には、頭が邪魔をしたり、迷子になるという困ったことも起きる。それでも、頭は「私」というものを取りまとめる役割を担っていると思う。


からだが悪くなった時「頭はこれまでの私のすべてと目前のすべての情報を統括することでからだを助ける」ことがわかった。

病気になったから「考え」は自分のほんの一部であると気づいた。

そして「迷子になった考え」は頭がそれを手放すことでまっとうな働きを取り戻す。

頭がそれを手放すには私の場合はそれ相応のショックが必要だった。


「私」という一つの「考えのパターン」が、私という生命体のためにできることは、

頭をクリアにするってことかもしれない。

その方法は古来から世の中にあふれかえっているのかもしれない。


(真ん中の写真は脳ではありません。ネズミの腎臓の糸球体という部分です。)



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